【拒食症克服ストーリー2 】拒食症が回復するプロセスと奇跡の瞬間
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愛する娘が発症した拒食症。
どんなに食べるように促しても食べてくれない娘。みるみる落ちる体重。
入院した病院で、娘は治療を拒否して脱走。
医師の心ない言葉。信頼していたカウンセラーさんからの叱責。
「もう逃げない!わたしが娘を治そう!」
わたしはひとりで、娘と向き合う決心をしました。
コーチング、カウンセリング、NLP、心理学、親業…あらゆるものを学びにいきました。
(拒食症克服ストーリー1より)
ここでは、わたしが娘と手探りで向き合い、 娘が回復していったプロセスと奇跡の瞬間についてご紹介します。
目次
1. 拒食症が回復するプロセス
(1)バラが大好きな長女
病院を脱走して、自宅で過ごすようになってから、わたしは娘との関わりの中であることを意識するようになります。
「娘が『快』になることはなんだろう」
「娘が望んでいることはなんだろう」
あるとき娘が遠慮がちに小さな声で言いました。
「ママ…、バラを見に行きたいんだ…」
「素敵だね! いいね! 行ってみようよ」
「いいの? 本当にいいの? パパ、いいって言ってくれるかな…」
「大丈夫だよ。〇〇ちゃんの好きなところに行ってみようよ」
わたしたち夫婦は、いつも夫婦だけで考えて子どもたちを外の世界に連れ出していました。
「幼いうちから子どもにたくさんの体験を!」と思っていたのです。
そしてそれは、子どもの意見が反映されたものではなく、
「これがいいだろう」という、わたしたち親の考えのもとで決めたものばかりでした。
娘が「バラを見に行きたい」とわたしに言ったのは、もしかしたらとっても勇気がいることだったかもしれません。
「それ、いいね!」とわたしが言った瞬間の、嬉しそうに崩れた表情や、その日を楽しみにするその様子に、
わたしが驚いてしまうほどだったのです。
これまでだって、いろんなところに遊びに連れて行っていた。
週末はいつも、子どもたちが「好きそうな」場所へ連れて行っていた。
けれど、本人が望むことが叶ったときって、こんなに明るい表情になるんだ。
そう感じました。
このとき娘はもしかしたら初めて、
「やりたいことを言ってもいいんだ」「望んだことを言葉にしてもいいんだ」と、思えたのかもしれません。
バラ園でたくさんのバラを撮影して、そして家に帰ってから娘が再び言いました。
「ママ、わたし、バラを育ててみたい。とっても気になっている素敵なバラがあるの。
買ってもいい? ベランダで育ててもいい?」
そんなふうに、自分の思いをわたしに教えてくれました。
そうして娘は、バラの苗を2株買いました。
娘はそれ以降、大切に大切にバラを育てていきます。
花が咲いたときの喜びようは、すごいものでした。
毎日バラの観察日記をつけ、スケッチをしたり、丁寧に虫を除けたり、剪定したり。
とっても愛情を持って育てていました。
バラに話しかけているときもありました。
「つらいときには、バラが聴いてくれるの」と、娘は言っていました。
明け方3時から4時に目覚めた娘が、ベランダでバラに話しかけているのをわたしは何度も耳にしていました。
泣いているときもあれば、淡々と語っているときもありました。
社宅のベランダだったので、もしかしたらご近所のご迷惑になっていたかもしれません。
それでも、わたしは何も言わず、ただ、娘がしたいようにして欲しいと思っていました。
「もし、何か問題があるなら、苦情があってから考えればいいや」
わたし自身もそんな緩さを、その頃には持てるようになっていました。
そして、ちょうどその頃、我が家には家を建てる計画が進行していたのです。
ずっとマンションや社宅暮らしだった我が家ですが、庭のある家に住む計画になっていました。
お庭にバラをたくさん植えたい。
お庭をローズガーデンにしたい。
娘は、いつしか素敵な夢を持つようになりました。
未来を憂え、過去を悔やみ、できないことや食事に向けていた意識を、
未来のバラが咲き乱れる庭を思い描くことに使うようになったのです。
泣いていた時間は、バラ図鑑でバラを調べる時間に。
食べることを考えていた時間は、バラのスケッチをする時間に。
家の図面をもとに、「庭のどの部分に、どんなバラを植えようか?」と、
いくつもの図鑑や雑誌、インターネットで調べながら、庭の図面にバラの絵を描き込み、
素敵なローズガーデンをどんどん形づくっていきました。
2学期となり、家で過ごすことになってからも、彼女は1日のほとんどの時間をバラとともに過ごすようになりました。
「ママ、一緒にやろう? 一緒に」
わたしは、娘とともにバラのことに詳しくなっていきました。
彼女の発見、彼女のイメージ、彼女の喜び。
あらゆることを、ともに楽しむように意識して過ごしていました。
そのひとときには、怖れも不安もない。
ただ目の前に娘がいて、わたしがただここにいる。
真にともにいる時間を丁寧に積み重ねる。
振り返れば、あの時間は宝物のような時間でした。
当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
▶やりたかったこと
(2)家づくりがはぐくんだ長女の夢
わたしたちは、娘が拒食症を発症する直前から、家を建てる計画をしていました。
ですから、拒食症のプロセスと我が家の家づくりのプロセスは、ほぼ同時進行のようでした。
家づくりのプロセスに参加することは、娘にとって楽しいことのひとつだったように思います。
もともと、住宅展示場やモデルハウスを見学するのが大好きでしたし、
街並みや素敵な家、素敵な庭を眺めながら散歩するのが大好きでした。
わたしたちは北陸地方に暮らしていながら、家を建てるのは関西だったので、
打ち合わせのために関西に行くこともしばしばありました。
もちろん拒食症の娘にとって長時間の移動はつらいものです。
絶対的に体力がない。
お尻が痩せすぎていて、長距離ドライブで座席に座っていられない。
安心できる食べ物の調達が難しい。
自分のルーチンが崩れる。
途中でパニックになったり、鬱々としてきたり、体力気力が途切れてウトウトしたり。
それでも、打ち合わせのときは楽しそうでした。
設計士さんや営業さん、インテリアコーディネーターさんとの会話にも積極的でした。
もともと家づくりに興味があったので、研究も熱心。
図面を自分で描いたり、仕上がった図面をもとに模型を作ったり。
ですから子どもといえども、その発言が打ち合わせの足を引っ張ることはありませんでした。
むしろ、気づかなかった視点からの質問疑問は、わたしたちにとってありがたかったのです。
病んでいく娘の発言は、わたしたちにとってだんだんと絶対的発言になっていき、
ついには予算をはるかに上回る家となってしまいました。
大人の事情で、絞るところは絞り、最終的にはみんなのお気に入りの家ができたのではないかな、と思っています。
そんなわたしたち家族の拒食症克服のプロセスを、いちばん目にしていたのは、
この家を建ててくださったハウスメーカーの方々だったのかもしれません。
元気な頃に展示場で出会い、契約し、そして発症。
会うたびに痩せていき、発言が厳しいものになっていく。
親であるわたしたちが娘への対応に戸惑い、気をつかったり何も言えなくなっていたり、
そんなプロセスもずっと彼らは見てくれていました。
そしてあるときをさかいに、パタリと娘が同行しなくなりました。
彼らは当時、何も話されませんでしたが、とても心配してくださっていたことを、のちに明かしてくださいました。
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契約から一年ちょっとたった引渡しの日。拒食症発症からほぼ一年。
元気いっぱいの笑顔で、お気に入りの詰まった新しい家の中を走り回り、歓声をあげる娘を見て、
営業さんをはじめ、関わってくださった方々が涙してくださったのです。
「お嬢さんが、家づくりをどれほど楽しみにしてらっしゃったのか、
わたしたちの作る家にどれほどの期待をしてくださっていたのか、
一緒に打ち合わせをしていていつも真剣に関わっていただいて伝わってきました。
だから、どんどん調子が悪くなっていかれる姿にとても心配していました。
治られたんですね! 出会ったとき以上の可愛い笑顔にお目にかかれて本当に嬉しいです。わたしたちも幸せです」
そのように一緒に喜んでくださったのです。
拒食症のつらい時期を支えてくれていた家づくり。
つらい現実と家づくりというポジティブな作業の不一致感に、息苦しさを感じるときもありました。
「拒食症の娘がいるのに、キッチンなんてこんなに夢を詰め込む必要ある?」って、ふと湧いてくるひとり言。
娘の状態を気にしながら決めたトイレの壁紙は、寂しい色と柄。
投げやりな気持ちのときに決定した照明は、今なら「?」と思うようなデザイン。
拒食症発症前から発症して悪化し、どん底になり、そして回復していくプロセスがいたるところに刻まれているこの家が、
わたしは愛おしくてたまりません。
そして娘にとっても、それは素敵な思い出になっているのです。
つらかった記憶よりも、家づくりの楽しかった記憶が彼女の中に強く刻まれているのです。
そして、そんな思いをして作り上げたキッチンは、
その後不登校になった次女を支える場所になったし、今では家族が笑顔で集う場所になりました。
寂しい壁紙のトイレに座ったときに、ふと、あの頃の自分を思い出して温かい気持ちで自分を抱きしめることがあります。
今、長女は大学3年生。我が家を建ててくださったハウスメーカーのインターンに応募するそうです。
つらかった日々が、今に、そして未来にとつながっているのを感じます。
(3)娘と寄り添う日々のなかでわたしが見つけたもの
入院先の脱走から自主退院という形をとってから、わたしはたびたび心が恐怖でいっぱいになることがありました。
「心の回復が先か? 生命の限界が先か?」
いろんな考え方があると思います。
そして当時のわたしが感じていたのは、心が愛で癒されないないままに拒食症が治ることはないんじゃないかなってこと。
食事の内容や、食事を摂ることにアプローチするよりも、目を向けるべきは娘そのもの。娘の心。
「娘の心が回復するような関わり方が最も大事。娘の笑顔が増えるような時間を積み重ねていくことが大事。
だから、頑張らなきゃ! だって、心の回復より先に、
もしも生命の限界がきてまた病院に入院しなければならないことになったら、娘の心は完全に壊れてしまう!」
娘に寄り添う時間を大切にしながらも、ふとしたときに恐怖が襲ってくるのです。
その頃のわたしは、自分を大切にする方法を知りませんでした。
自分をねぎらうこと。
自分を休ませること。
その方法を知りませんでした。
娘は交感神経が敏感になり、夜にぐっすりと眠ることができなくなっていました。
朝は、3時半頃に起きていました。
朝食は0kcalのゼリーのみ8時に食べます。
昼食は10時にわたしが抱っこして車に乗せて、おきまりのコンビニにお気に入りのベーグルを1つだけ買いに行きます。
その店になければ見つかるまで系列店をはしごします。
そして、11時半にベーグルを食べます。そのときは皿まで美味しそうに舐めます。
夕食は、14時にまたまたわたしが抱っこして車に乗せて、例のコンビニにお気に入りのベーグルを1つだけ買いに行き、
家族の夕食の買い出しのためスーパーへ行きます。そして、16時にベーグルを食べます。
当時は社宅の3階に住んでいました。わたしはその都度、彼女をお姫様抱っこして階段の昇り降りをしていました。
娘を抱っこして車に乗せていたのは、筋力がなくなり車のシートに乗り込むことさえできなくなってしまったからです。
食事をし、17時から1時間半お風呂に入り、疲れ果てて眠ります。
入浴中は体調の変化に、わたしはずっと神経を張り巡らせていました。
これらのうち、空いている時間は、わたしと一緒にひたすらバラのことを調べます。
その頃の彼女が唯一、楽しめることです。
新しい家を建てることになっていたので、庭の図面とにらめっこしながら数冊のバラ図鑑とともに、
どの種類のバラをどんなふうに植え込むのかを楽しんでイメージして図面に書き込みます。
何度も何度も。
小さなベランダで、2株のバラを育てることを楽しみます。
花が咲くのが嬉しくて、毎日何百枚もの写真をデジカメで撮り続けます。
涙が出ない日はありません。
日に何度も嗚咽や泣き叫ぶことがあります。
わたしは、朝がくることが怖くなりました。
ああ、また朝が来てしまった。
娘はトイレにもついてきていたので、わたしはひとりになることができませんでした。
(わたしがそれを選ばなかっただけなのですが)
唯一ひとりになれるのは、ゴミ捨てのときでした。
そのときの朝の空が青くて、空を見ながら泣きました。
ゴミを捨て、玄関ドアの前で「よし!」と自分に声をかけます。そして、笑顔で家に戻っていきました。
わたしは長女を乗せて買い物に行くとき、対向車が突っ込んできてくれることを望んでいました。
わたしは、自分を大切にする方法を知らなかったのです。
愛する人のために一所懸命に生きている自分にかける「優しさ」を知らなかった。
鏡に向かってよく「わたしはよく頑張ってる!」と、言って聞かせていました。
その声のトーンが厳しくて、自分で嫌になってやめたことがあります。
優しい口調で、
優しい眼差しで、
優しく態度で、
自分自身を優しく包むことを知らなかったのです。
何かがあればパーンと割れる水風船のように、張り詰めた緊張の中で生きている。
そんな自分を緩める方法を知らなかったのです。
自分を慈しむことができなくて、どうして苦しんでいる娘を思いやることができただろう。
自分を愛して幸せにしようと思えなくて、どうして愛する人を幸せにできただろう。
「教わっていないことはできないんだよ。だから、教わってないことは勉強すればいいんだ」
娘との24時間の関わりが、ひとつひとつ慈しみを積み重ねていく時間が、
わたし自身が愛を学び、愛を育てる時間になっていたのだと、あの頃を振り返って、今、そう思うのです。
2. 奇跡の瞬間
笑顔が消えて、その大切さに気づく。
骸骨のように痩せ細った身体を抱きしめ、ただ健康であることのありがたさに気づく。
苦しみにゆがむ姿を見て、ただただ助けたいと思う。
試行錯誤で寄り添う日々。親としての自分を責める日々。
自分ではどうしようもできないことに対する怒り、焦り、苛立ち。
すべてを超えて、母親としてのあるべき姿を目指す。
ゴールがいつなのかがわかっていたら、踏ん張りようがあるのに…。
だけれども、ゴールがいつなのかわからないからこそ、
勝手にそれを設定し、そうなることを信じて今この瞬間を精一杯に生きる。
振り返ればその積み重ね。
それは愛情の受け渡しが不器用だったわたしたち親子の物語。
その物語の中で見つけた、何よりも大切なこと。
そう、娘が拒食症を克服することとなったその大切なことは、すぐ足元にあったのです。
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(1)再入院の決断と娘の絶望生命
拒食症のことを「静かなる自殺」と表現する方もいらっしゃいます。
食べなければ確実に死に近づいていくのがわかっているのに、食べることができないのです。
通常であれば、理解に苦しむ娘の行動や心の状態。
娘も、拒食症の一番ひどかった頃にこんなことを言っていました。
「ママ。わたしはきっと治らない。お願いだから病院に入れないで。
この家にいさせて。お願いだからこのままこの家で死なせて。それがわたしの幸せなの…」
精神科医の方の書籍も、わたしたちに関わってくださった病院の医師や臨床心理士の先生も、
インターネットで調べた情報も、口をそろえて言います。
「低体重では通常のコミュニケーションがとれないので、
まずは体重をある程度増やしてから関わり方を工夫していきましょう」
もしかしたら、そのような方法で拒食症を克服され、
再発することなく元気でいらっしゃる親子も存在するかもしれません。
もちろん生命に配慮することは、大前提条件だと思います。
けれど私は思うのです。
娘が低体重だと、本当にコミュニケーションがとれないのでしょうか?
娘が低体重だと、愛を伝えることはできないのでしょうか?
愛を伝えるのは体重を増やしてからじゃないと無理なのでしょうか?
確かに実際に、食事の重要性を説いても、強すぎるこだわりを指摘しても、
入院のタイムリミットが迫っていることを伝えても、
どんなに痩せていても「太った!」と言う娘。
「そんなことないよ」と真実を伝えても、
「無理して学校へ行かなくてもいいんだよ」と言っても、
「あなたは十分に頑張った」と言っても、娘は私の言葉を頑なにはねのけていました。
必要な情報のやり取り、正しいか間違いか、良いか悪いか、必要か不要か。
わたしはいつのまにか、それを伝えることが「コミュニケーション」だと思うようになってしまったのかもしれません。
そして、そんなやり取りに慣れてしまったわたしが
「愛してるよ」「大切に思っているよ」と一所懸命に言葉にしても、娘の心に届くことは難しかったのかもしれません。
けれど、きっとある。
娘の心の深いところに愛を届ける関わり方がきっとある。
「それが、娘を拒食症から救う手立てになる」その思いは確信になっていきます。
「心の回復なくして、娘の拒食症が本当に治っていくことはないだろう」
「心が回復すれば、きっと拒食症は治る」
つまり、心に届く関わりができたら、心に愛を届けることができたら、
心を愛で満たすことができたら、娘の存在を愛で癒すことができたら、必ず奇跡が起きるんだ…
わたしはそんなふうに生きるようになりました。
そして、私は奇跡の瞬間が必ず起きると信じて、娘との日々の一瞬一瞬を過ごすようになっていったのだと思います。
娘の食へのこだわりに対して、わたしが一喜一憂することはその頃にはほとんどなくなっていました。
わたしの意識は、娘の声のトーンや息づかい、発する言葉そのものではなく、
どんな表情で過ごしているか、その言葉を発する「背景」に意識が向くようになっていきました。
わからないなりに、わかろう、知ろう、気づこう、感じようとするようになっていました。
ただし、病院との連携も密に取っておく。
生命・身体をサポートしていただきたかったからです。
その頃診ていただいていた大学病院の児童精神科の先生は、次のようにおっしゃっていました。
「お嬢さんは、前の病院で随分とつらい思いをされましたね。
お嬢さんが私や病院との間に信頼を感じてもらえるまでは、栄養的治療や入院の話などはしません。
ただ、定期的に体重計測と血液検査は行います。
そして本当にこれはマズイな…と私が判断したときには、小児科にも診ていただこうと思います」
少しずつ日々の生活に楽しめることを見つけたり、何かに夢中になる時間を過ごしたり、
大好きな薔薇を育て、その薔薇が素敵な花を咲かせたり。
おきまりのお昼を買いに車で走るときも、薔薇が綺麗に咲いているお家を見て回ったり、
ときには車の助手席で鼻歌が聞こえるようになったり。
学校へ行かなくなった2学期からは、小さなベランダにテーブルと椅子を出して
娘と私はいつもそこでランチをするようになりました。
「ママ。外で食べるのは、気持ちがいいねっ」
「ママ。綺麗な薔薇を眺めながら、ベランダで絵を描くのは気持ちがいいねっ」
そうやって、少しずつ楽しさや心地よさを表現するようにもなっていきました。
しかしついに、生命の機能が悲鳴をあげるときがきてしまったのです。
もう、そのときには筋力も落ちきり、数ミリの段差にものぼれず、起き上がるのも手で支えるようになっていました。
精神科の主治医の先生が、小児科を受診するよう私たちに言ったのです。
「お母さん。きっと、もう、限界です。予約を入れて、明日小児科受診してください。
そして、生命についての話をしてきてください。
おそらく入院を勧められるでしょう。その際の入院先は、精神科の閉鎖病棟になります。
ご主人と相談し、入院の選択をしてください」
「再び入院生活になったら、娘の心はバラバラになってしまう…」
わたしの心の中にはそんな恐怖が、ずっとあったような気がします。
それくらい、前の病院での出来事がわたしにとっても強烈だったのだと思います。
私はその晩、眠れませんでした。
自分を責め続け、悔やんでも悔やみきれない思いだったのです。
ついに限界がきてしまった。間に合わなかった。
でも…。
入院したって、愛情を伝えていくことはきっとできるはず。
でも…。
そんな思いが葛藤していました。
そうです。
こんなときでも、わたしは娘の気持ちに寄り添えてなかったのです。
娘を救えなかった自分のことばかり考えていました。
これからどうしようか、そればかりを考えていたのです。
娘はわたし以上に、ずっとずっと怖かったはずなんです。
もしかしたら、また入院させられるかもしれない。
入院したら、家でのような心穏やかに好きなものに触れることもできない。
入院したら、無理矢理にでも食べさせられてしまう。
点滴や、場合によっては鼻から栄養を入れられるかもしれない…。
無理やり太らされてしまう。
鍵付きの部屋に入れられて、ママにも会えなくなる…。
娘は一体、どんな夜を過ごしていたんだろう。
そのときの娘の様子を、私は覚えていません。
多分、見ていなかったのだと思います。何も感じ取っていなかったのだと思います。
自分を保つことで精一杯だったんです。
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次の日、わたしは不安そうな娘とともに病院へ行きました。
その間も娘はわたしに問い続けます。
「ママ。ママはわたしを入院させたりしないよね? わたしは、もう二度と入院なんてしないからね? 大丈夫だよね?」
「入院したくないんだよね。ママも、そう思ってるよ。今はとにかく、身体の検査をしてもらおうね」
そう言って何度も誤魔化しながら、娘を診察室まで連れて行きました。
小児科では、体重計測、血液検査はもちろんのこと、CT検査も受けました。
そして、検査の画像を診た担当の医師に強い調子で言われました。
「お母さん、見てください。この黒く写っている部分は隙間ですよ。
脳が萎縮してしまって、隙間だらけになってしまっているんです。学習障害が起こりますよ。将来が心配です。
そして、これは心臓です。私はこんなに小さく萎んだ心臓を初めて見ました。
お母さん、こんなになるまで何やってたの!? 今の状態わかっているの?
明日、目が覚めたときにお嬢さんが冷たくなっていたとしても、何ら不思議じゃないんだよ。
体重はもちろん、もう、心臓も脳も限界なんだよ! 親としておかしいでしょ! 何やってるの!?
すぐに入院させてください。大丈夫ですね? 無理矢理入院させられないんですよ!? 親御さんの承諾がいるんです」
その話を聞いていた娘が、わたしが返事をする前にすごい形相で言葉を返します。
「入院なんてしない! そんなのするくらいなら死ぬ。また入院するくらいなら、死んだ方がマシよ!」
すると担当医は怒り出しました。
「ここは小児科だよ。ここにはね、癌と闘っている子どもたちがたくさんいるんだよ!
生きれるあなたがそんなことを言うのを、先生は許さないよ!」
そのような正論は娘には届きません。むしろ、火に油をそそぐかのごとく、さらに泣き叫びます。
娘は泣きながら、わたしに訴えます。
けれど、わたしは入院を選択しなければならないのです。
「娘の生命が危ないんだ!」という思いだけが、わたしの頭でグルグルと回っていました。
娘は、泣いてすがるような目でわたしから目をそらしません。
わたしも娘から、視線を外すことができませんでした。
そして娘の目を見ながら、わたしはうなずき、意を決し、医師に伝えました。
「入院します。よろしくお願いします」
わたしの言葉を聞くやいなや、娘が暴れ出しました。
「嘘つき!! 裏切り者!!」
娘はそう言うと、窓をよじ登り、飛び降りようとしました。
数ミリの段差も昇れないほど筋力が弱っていたのに、数人の看護師さんが押さえつけるもの困難なほどに暴れたのです。
わたしは、オロオロするばかり。ただただ娘の名前を呼ぶことしかできませんでした。
わたしは、入院を承諾したその日に入院できるものだと思っていました。
けれど蓋を開けてみれば、閉鎖病棟のベッドに空きがなかったのです。
そして、
暴れ狂う娘を小児科やその他の病棟では預かることはできない。
ほかの患者さんの迷惑になるし、責任が持てない。
だから今日は連れて帰ってくれ…と小児科の担当の医師に言われてしまいました。
意を決して入院を決めたと思ったら、連れて帰らなければならいなんて。
暴れている娘をどうやって連れて帰れというのか。
死のうとする娘とどうやって、向き合ったらいいのか。
わたしは暴れる娘を抱きかかえて、車に乗せ自宅に帰りました。
片手で娘の体を押さえながら、車の運転をしました。
車内でも、目を離したすきに今にも車から飛び出しそうだったからです。
自宅に帰ると、今度は児童精神科の主治医の先生から電話がありました。
「お母さん、申し訳ない。手違いでした。
ベッドがすぐに用意できると思っていたのです。お嬢さんの様子は大丈夫ですか?
私の方からも数時間おきに、お母さんの携帯にご連絡をします。
そして私の個人の携帯の番号をお伝えします。何かあれば、深夜でもいつでも構いません。遠慮なくお電話をください。
早急にベッドの手配をしました。それでも3日はかかってしまいます。どうかお母さん、なんとか凌いでください」
傷つくことが多かった病院とのやり取りの中で、
この先生とのやり取りはほんの少し、勇気をわたしに与えてくれたように思います。
24時間体制で、病院の枠を超えて関わろうとしてくださる人がいる。
わたしたち親子を気にかけてくれる人がいる。
そう思うだけで、ほんの少し、勇気が湧く気がしました。
自宅に戻っても娘の状況は変わらず、
少しの隙をみては窓をこじ開けてベランダのフェンスをよじ登り、何度も何度も飛び降りようとしました。
「ママ、お願い死なせて! 私なんて生きていてもしょうがないんだよ!
どうせ、入院なんてしたって治りっこないんだよ! ママ、死なせてよぉ!」
わたしは必死になって止めました。
娘は叫びながら、抱きしめるわたしを振り切り飛び降りようとする。その繰り返しでした。
そんなやり取りをどれどけの時間、続けたでしょうか。
長いやり取りの中で、ふと、わたしの中で何かが変わった瞬間があったのです。
それは、
「この子に生きていてほしい」とか「このままでは死んでしまう」とか
「病気が治ってほしい」とか、そういった想いがスーッと消えた瞬間でした。
振り返れば「無」に近い状態だったのかもしれません。
娘の声が聞こえているのだけれど、何か遠くで聞こえているような。
娘の顔が見えているのだけれど、何かのシーンを見ているような。
それは多分一瞬だったのかもしれないし、数分だったのかもしれません。
そして私は、やっとそのとき初めて気づいたのです。
「あぁ…。つらいのは、私じゃない。つらいのは、この子なんだ」
その瞬間、わたしは娘を抱きしめ言ったのです。
「そんなに、つらいんだね。死にたくなるくらい、どうしようもなくなるくらいつらいんだね」
そしてわたしは、娘をそっと、そして全身全霊で抱きしめました。
その言葉を聞いた娘は、飛び降りようとすることをやめ、「わーーーー」っとわたしの腕の中で泣きじゃくりました。
「つらかったね。ずっと、ずっと、つらかったね。分かってあげられなくてごめんね」
わたしの腕の中で、どれくらい泣いていたでしょうか。
わたしは娘を包み込むように、優しく語りかけていたように思います。
「あなたは大切な存在だよ。ただただ、大切な存在なんだよ。愛しているよ。
ママは、どんなあなたも大切で、愛しているよ」
そして娘の全身から力が抜け、そのままわたしの腕の中で眠ってしまいました。
何時間たったのでしょうか。
病院から戻ってきたのはお昼過ぎ。
そして、もう、窓の外は暗くなっていました。
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(2)体重18kgでも伝わる愛
そのときのわたしはまだ、大きな変化が起きつつあることに気づいていませんでした。
娘を抱きながら、窓の外が夕焼けに染まりそして暗くなっていくのをただ、ボーッと眺めていたような気がします。
眠っている娘に目をやって、そして愛を語りかける。
そんな時間が流れていました。
あの時間には、「これからどうしよう」という、そんな思いも不安も一切なかったように思います。
ただただ、娘と一緒に。
ただ、そこに存在していた時間だったように思います。
目が覚めた娘が言いました。
「ママ、お買い物に行こう」
そして、いつものように娘を抱き上げて車に乗せ、出かけました。
いつものようにおしゃべりをしながら買い物をし、いつものように決まったものを食べ、
そして、いつものように家族の食事の準備をし、いつものように娘はお風呂に入りました。
いつもよりは、少しおしゃべりだったかな。冗談も言っていました。
昼間の出来事がまるで幻だったかのように、いつも以上に穏やかに、時間が過ぎていくのを感じました。
死のうとしていたときに、冷めきった表情で「明日は来ないと思いな」と言っていた娘。
けれど今、隣にいる娘の表情があまりにもスッキリと穏やかに見え、そのギャップに、わたしは少し怖くなりました。
お風呂から出てきた娘は、冷蔵庫にあるゼリーが食べたいと言い出しました。
わたしはいつも、かつて娘が好きだったものを何かしら冷蔵庫に入れておくようにしていました。
もしも、娘が「食べたい」と思ったときのために常備していたのです。
娘はそれに気づいていたようでした。
1日に数個食べている0kcalのゼリーではありません。白桃の入った甘いゼリーです。
娘はゼリーを口に運びました。その瞬間に、奇跡が起きたのです。
ひと口食べ、飲み込んだ瞬間に表情がパッと明るくなり、こう叫んだのです。
「ママ! ママ! ママ! わたし治った! わたし治ったよ!」
娘の瞳にはみるみる涙が溢れてきました。
娘はわたしに飛びついて続けます。
「ママぁ…。わたし…、わたし…、治ったんだよぉ…」
わたし自身も、その瞬間に確信しました。
わたしに飛びついた娘の身体はエネルギーに満ちていました。
瞳には光が入り、その雰囲気はガラリと変わっていたのです。
「本当に…。本当に、治ったんだね」
わたしたちは、抱き合い、喜び合いました。本当に、奇跡が起きた瞬間でした。
そう、奇跡の瞬間です。
のちに娘から聞いた話ですが、ゼリーを食べた瞬間に、頭上から無数の光が自分に降りそそぐのが見えたのだそうです。
そこからは、さあ、大変! お祭りのような騒ぎでした。
もう、その瞬間に、娘の拒食症は治ってしまったのですから。
そこからすべてが変わっていきました。
ママ! お寿司、食べに行こう!
ママ! 近江町市場のイクラ丼を食べに連れて行って!
ママ! あの、おいしいケーキ屋さんに行きたい!
ママ! ママの竜田揚げが食べたい!
ママ! ママの作ったオヤツが食べたい!
それからママ、よく街を眺めたあの場所に連れて行って!
ああ、ママ! 嬉しい! 楽しい! どうしよう!
そして、しばらくして、ふと真顔になってわたしに尋ねました。
「ママ、入院の日はいつになったの?」
入院は3日後との連絡をいただいていたので、娘にそれを伝えました。
すると娘はこう言ったのです。
「ママ、わたしの拒食症は治ったよ。治ったけど、わたし、入院するね。
身体が思うように動かないし、わたしの血液の様子も身体の中も、おかしくなっているんでしょ?
拒食症を治すための入院じゃなくて、元どおりの身体に早く戻すために入院するよ」
長い間、まともな食事をしていなかったせいで、肝臓など、身体の機能が弱っていました。
だから、実際にも元の生活に戻るには入院が必要だったのです。
そして驚くことに、娘はあれほど入院を拒んでいたのに、自ら進んで入院することを決めて治療に挑んだのです。
入院までの3日間。娘は好きなことをして、食べたいものを食べて過ごしました。
ちょうど週末をはさんでいたので、家族で外食もしました。
自宅の食卓にたくさんのご馳走が並び、家族でワイワイと食事をする日が再びやってきたのです。
「食事中はしゃべらない」という拒食症の最中にできたルールも、もう、なくなっていました。
おいしいものを食べるって、楽しい! 楽しいって、嬉しい!
娘は弾むように言いました。
ドライブの途中で、ある墓地の脇を通ったときに、娘はそれを見て震えたように言いました。
「ママ。わたし、本当は死にたくなんてなかったの。わたしは、大丈夫だよね」
「大丈夫だよ〜。そんなふうに叫ぶほど、つらかったんだよね。
それでいいんだよ。大丈夫だよ。助けてほしかったんだよね。本当に、大丈夫なんだよ」
わたしがそう言うと、娘は安心したようにうなずいていました。
拒食の生活から抜け出した娘。
入院までの間、担当の医師から欠かすことなく連絡をいただいていました。
娘が食べれるようになったことと、その経緯を説明しました。
先生はしばらく黙って聞かれていましたが、その後、注意点を教えてくれました。
何より心配なのは、急激に栄養を摂取することで肝機能に著しい負担を与えてしまうこと。
そのために不整脈や、大きなダメージを与えることもあるということ。
「おいしく笑顔で食べれるようになったことは、本当に良かった。お母さん、良かったですね。
でも、くれぐれも食べさせすぎないでくださいね。
入院までの間、気をつけつつ、彼女にとって良い時間を過ごしてあげてください」
娘は、医師からの電話があるたびに、じっと話を聞いていました。
わたしは情報として、そのままの言葉を娘に伝えました。
娘は言いました。
「〇〇先生は私にとって、いい先生だったと思う。こんなに連絡してきてくれてありがたいね。
それにわたしに対して、無理やり何かをしようとしなかった。なんか、見守ってくれてたのかな…。
何も助けにはならなかったけど、病院に行くことは苦痛じゃなくなってた。先生にはありがとうって言いたい」
その先生は児童精神科の外来専門の先生で、精神科閉鎖病棟には入っていらっしゃいませんでした。
ですから娘が閉鎖病棟に入ったら、お会いすることはなくなります。
入院当日、娘は先生のところへ治った報告へ行きました。
不思議だなあと思います。
低体重の状態ではコミュニケーションはできない。認知のゆがみは解消できない。
そんなふうに言われてきたけれど、このときの娘の体重は18kgでした。
(ちなみに6歳の女児の平均体重ですら18.9kgだそうです)
愛で満たされ、本当の苦しみを理解された体験が、
娘の心を再び生き生きとしたものにしたのではないかとわたしは思うのです。
それは低体重だろうが関係なく、体験できたのです。
そして回復した心は、これまで拒み続けていた医師や病院とのやり取りまでも行えるように、一瞬で変化したのです。
(3)毎日が奇跡
「せっかく食べられるようになったのに、なんで食べちゃダメなの!?」
娘の入院生活は、食事制限からのスタートでした。
3日間、好きなものを食べたおかげで、肝臓が悲鳴をあげていたようでした。
大きなお皿に親指大ほどの煮魚。ほんのひと口分のお粥。
過去、身体に栄養を直接入れられるなんて耐えられないと、片っ端から点滴の針を抜いていた娘に、
病院側が配慮してくだった結果でした。
「点滴は一切打たずに、回復を図って行きましょう。そのためには、食事も少しずつ体を慣らしていく必要があります。
血液検査の結果を見ながら、食事の量を増やしていきましょうね」
というものでした。
それでも娘は号泣です。
食べたい、食べたい、食べたい、食べたい。
お腹がすいてたまらない。
食べたいよー。
どれだけ泣いたかわかりません。
病院食は、いつもお皿まで舐めていました。
無理もないよな…とわたしは思いました。ずっとずっと、飢餓的な状態が続いていたんですから。
そうやって少しずつ、食べられるものが増えていきました。
面会に来たわたしに、そのたびに嬉しそうに教えてくれました。
もともと好き嫌いが多い娘でしたが、野菜のおいしさを知ったのも、この病気が治ってからです。
娘は閉鎖病棟の中でも、さらに鍵のかかった個室を用意されていました。
カメラで監視された生活です。トイレも、室内にあるポータブルトイレでしなければなりません。
自由に部屋から出ることもできません。
気持ちは治っていた娘にとっては、苦痛だっただろうと思います。
「ここの看護師さんたちはラッキーだね。なぜなら、わたしの拒食症は治っているから。
治ってなかったら、きっと言うことなんて聞かなかったもん」
そんなふうに笑っていました。
ドアのところにある丸い小窓が、娘と外の世界をつなぐ窓でした。
わたしが面会に来る時間には、決まってその小窓からのぞいて待っていました。
娘の心と身体の変化はめざましいものでした。
彼女はそんな日々の身体の変化を楽しんでいました。
ママ、身体の皮が、ボロボロとむけていくんだよ。わたし、脱皮してるんだね!
ママ、今日は片足に立って靴下が履けたんだよ! 毎日実験してたんだけど、やっとできたんだ!
ママ、今日はね、ちょっとチャレンジしてみようと思うの。この段差を登ってみようと思うんだ。
ほら! できたよ! 嬉しいね! これならもう、階段もきっと昇れるよ!
娘にとって、毎日が奇跡の連続でした。
ないものに目を向ければ、ないものだらけです。
シャワーは毎日使えない。
自由に外に出られない。
好きなものは食べられない。
家族は別で生活している。
学校のことは気になる。
精神科の病棟なので、ハサミや道具を使った工作はできない。
けれどいつの間にか娘は、良い部分に目を向けたり、楽しいことを見つけたりして、
自分を「快」にすることを積極的に取り入れるようになっていました。
色鉛筆、
スケッチブック、
バラ図鑑、
バラの画集、
アロマの香り、
わたしの素人アロママッサージ。
許される範囲内で、娘はリクエストをたくさん教えてくれました。
寒々としていた閉鎖病棟の鉄格子の個室が、娘の色で溢れるようになっていきました。
遊び相手のいないベッドでの暇な1日。彼女はずっとバラの絵を描いていました。
ある日、「あなたの描いているバラの絵をください」と言ってくださったある年配の患者さんがいらっしゃいました。
娘は丁寧に描き、プレゼントしたそうです。
その方が退院されるときに、娘に言ってくださったのです。
「可愛い〇〇ちゃん。あなたの絵のおかげで、気持ちがあったかくなったわ。この絵は大事な宝物よ。ありがとう」
娘はとっても嬉しそうに微笑んでいました。
娘は医者や看護師の方々が驚くほど、みるみるうちに回復していきました。
唯一、彼女が憂えていたことは、髪の毛が抜けることでした。
栄養を摂るようになったからか、髪がごっそりと抜けるようになったのです。
髪をとかしても、シャワーで髪を洗っても、指に絡まりつく髪の毛の量にゾッとするほどでした。
枕やシーツにもこびりつき、そのたびに娘は「全部抜けてしまったらどうしよう」と泣いていました。
ある日、面会に行ったとき娘は鏡の前で泣いていました。
「ママ、どうして泣いたらいけないの? 私は女の子だよ。髪が抜けたら悲しいんだよ。
栄養をしっかり摂っていれば、抜けた髪がまた生えてくることくらい私だってわかってる。
そんなの、調べればすぐにわかる。だけど、髪の毛が束で抜けたらやっぱり悲しいんだよ。
看護師さんは泣いたらダメだよ、生えてくるんだからって言うの。
本当に泣いたらダメなの? どうして、先生や看護師さんはそんなことをいうの?
泣くのは悪いことなの? 悲しいのに泣くのを我慢する方がよっぽど悪いんじゃないの?
みんなつらいんだよ。ここにいる子たちは、みんな我慢してるんだ。どうして大人たちはそれをわかろうとしないの?」
わたしが面会に行くと毎回涙し、そしてまた笑顔で絵を描いたりおしゃべりをしたりして過ごしました。
1日の終わりには娘のリクエストで、好きな香りのオイルでマッサージをしていました。
「ママ、あれやって」
わたしは娘が眠りにつくまで、ポンポンと優しく触れながら、
「〇〇ちゃん、大好きだよ。あなたは大切な存在だよ。あなたはわたしの誇りだよ。
あなたはそのままで、十分に素晴らしい存在なんだよ〜」
と、優しくそっと子守唄のように語りかけることを、ときどきリクエストされました。
「これ、気持ちいいの。これ、大好きなんだ〜」
病気の真っ最中にもやっていたことです。
そのときは彼女の身体に触れるのも、腫れ物に触るように怖々でした。
語りかけている間も、彼女の顔はずっと無表情だったんです。
「ああ、それでも、娘の深い部分には少しずつ届いていたんだな…」そんなことを感じました。
クリスマスやお正月。
入院して2ヶ月もかからないうちに、長期で外泊が許されるようになりました。
外泊の際に処方される眠剤も、娘には一錠も必要ありませんでした 。それほど娘の状態は安定していたのです。
病院からの道中。
「ママ。わたしね、拒食症は治らないと思っていたの。だけど、ママだけはわたしが治るって信じてくれていたよね。
わたしはものすごくつらかったけど、いつもそばにいてくれたママも、きっとつらかったよね。
無理やり食べさせたりしないで、ずっとずっと、そばにいてくれてありがとう」
娘がそんなふうに伝えてくれました。
順調に回復した娘は、入院から2ヶ月ちょっとたった1月半ばに退院し、そして翌月のバレンタインデーに復学しました。
そして無事、小学校の卒業式を迎え、春休みに念願の新居へ引っ越し、新しいスタートを切ることとなったのです。
![](https://www.kosodate.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2021/11/story2_06-1024x684.jpg)
拒食症の診断が出たのが、小学校6年生の春。
今、娘は大学3年生です。
栄養不足で丸1年以上止まっていた身長も、20センチ以上伸びました。
学習障害が残るといわれていましたが、元気で快活な女子大生です。
奇跡の瞬間から、一切後戻りすることはありませんでした。
小学校の最後、ひと月あまりの復帰。
新しい土地での中学生活。
バラを育てる暮らし。
友だち関係。
受験。
そして、きょうだいとの関係。
わたしたちは、愛情の交換が不器用な母娘です。
生きる時間のすべてが、愛を学ぶ時間になりました。
そして娘たちの出来事が、わたしが自分自身と向き合い、深く生きることを教えてくれたと思っています。
娘たちの笑顔がわたしの宝です。
毎日が奇跡の連続です。
娘の拒食症を娘と乗り越えたことは、わたしにとって大切な贈り物となりました。
愛する娘たちの人生を信じて、見守ることができるようになったからです。
彼女たちの苦しみですら、それを乗り越えた先の笑顔を信じて見守り、応援できるようになりました。
そしてこれは、何より自分自身に対してもいえることでした。
ときに娘たちの笑顔に問いかけます。
わたしたちはあなたたちに、上手に愛を贈れていますか?
今、この瞬間に生きること。
そして微笑みあって、愛を分かち合って生きること。
家族からはじまったこのストーリーが、もしも今、苦しい思いをされている方にとって、
少しでもヒントになればと願っています。