「見守る」は苦行?見守るとは?
ごきげんよう
公認心理師の渡辺貴子です。
親子で不登校・拒食症を乗り越えるためのヒントや、私自身が希望を見出せなかった頃に欲しかったもの。
何か一つでもお役に立てることを願って、この記事を書いています。
今回は
「見守りましょう」
について。
お聞きになったことはありますか?
そう、誰かに言われたことはありますか?
よくわからないままに「見守る」をしているけれど、何だか自分が苦しい…。
「見守る」ってどういうこと?
「見守る」って苦行だわー!
そう思う時期が、私にはありました。
親(あなた)の関心がどこに向いているのか?
ある、夏休みの海水浴場でのワンシーンです。
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砂浜で、子どもが砂遊びをしている。
お山を作ろうとしているのかな?
波打ち際なので、作っても作っても流されてしまう。
それを繰り返しているのを見たお母さん。
「なんで、そんなところでやってるのぉ!」
「ほら、もっとこっちに来て作りなさい!」
「波で流されちゃうでしょ!」
「せっかくだから、頑張って大きな山にしたら?」
「トンネル作るのもいいね!」
「ほら、もっと砂を運んでおいで。」
「手じゃダメよ、スコップつかわなきゃ。」
「ほら、ちょっとかしてごらん!」
お母さんの手も口も、止まりません…
しばらくして、「ほら、すごいじゃない!おっきなお山ができたねー!!」←ドヤ顔のお母さん
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いつの間にか、口を出し、手を出し
あげくに「ほら、ママの言った通りにして良かったでしょ!」って…。
日常でも、こんなこと
起きていないだろうか…。
「子どもを見守りましょう」と言われるけれど…
子どもが不登校や拒食症になり、子どもとの関わり方に苦慮している時
見守りましょうね
そう、言われたことはありませんか?
病院の先生、カウンセラー、本やネットや先輩ママ、親の会、学校の先生…。
私の過去を振り返ると
「見守りましょう」と教えてくれても、「見守るとはどういうことなのか」を教えてくれる人はほとんどいませんでした。
何となく、こういうことかな?と理解したつもりになって、トライする。
「よし、やってみよう!見守ろう!」
けれど、だんだんモヤモヤしてくる…
そのうち、ある疑問が湧いてくるのです。
自分のしていることは
果たして見守りなのか
ただの放任なのか。
見守るってなに!!!???
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子どもの「やることなすこと」、何も言わないことが見守ることなのか?
注意せずに?黙認することが?
我慢するってことが?
それを見守りというのか?
本当に、それでいいの?
失敗するってわかっているのに?
また辛い思いをするかもしれないのに?
このままだと、立ち上がれないかもしれないのに?
それが、見守ることなの?
それって、親としてどうなの?
そう、思っていたな…、私。
その試練や困難は、子どもにとっての宝物
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波打ち際で何かをこしらえると、波がそれを崩していく。
一所懸命作るたびに、流される。
ふと、子どもは自分で気づく。
「ああ、ここじゃだめだ。流されちゃう」
そして、場所を移動する。
山を高くするには、たくさんの砂がいるな。
手じゃ大変だ。
そうだ、道具がいるぞ。
スコップの方がいっぱい集められるぞ。
お隣をふと見ると、トンネルを作っている。
「なんかカッコいいな。僕も穴を開けてみよう」
子どもはいっぱい試行錯誤しながら失敗や発見を繰り返し、お山を作っていくのです。
このプロセスに「成長の種」がたくさん詰まっています。
だから、子どもが適度な困難や痛い目、試練にあうことこそ、子どもにとって尊い体験なんです。
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お砂遊びのお母さんのように、子どもの体験を先回りして手出し口出ししてしまうと、本来子どもが味わうべき遊びのプロセスにおける尊い体験をお母さんが奪ってしまうことになります。
結果として立派なお山は手に入りますが、子どもが自ら失敗したり工夫する体験が失われてしまいます。
体験は、結果ではない。
私たち親にできることは、子どもの体験を奪うのではなく、子どもが安心して試行錯誤ができるように、そしてリアルにしっかりとその体験を味わえるように、愛をもって見守ることです。
そして「ママできたよー!」と知らせにきた子どもに、最高の笑顔で
「わあ、素敵だね!」と伝えることです。
あゝ、君は素晴らしい体験をしていたね。
君は素敵だね。
ここからお母さんは見ていたよ。
そう、伝えることです。
結果じゃないの。
もしかしたら、子どもが作りたかったのは山じゃなかったのかもしれない。
作っているうちにお料理になってケーキができるのかもしれない。
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大切なのは、私たち親が結果ではなく子どもの体験に関心を向けること。
子どもがどんな体験をしているのか、それを見て聞いて感じることです。
結果を目指して最短ルートで、親が指示や命令、アドバイスをしてリードしてしまったら、子どもは自ら思考し工夫し、自らの時間を創造する体験ができなくなります。
試行錯誤からの学びを得られなくなります。
子どもにとって、これは失敗してツラい思いをする以上の残酷さだと、私は感じます。
親が注意やアドバイスしなかったら、子どもは成長できないのか
一所懸命に遊んでいて、ふとお母さんを見た時に、おおらかな眼差しで見守ってくれていると、子どもは安心できます。
上手くいかなくて不安になって振り返った時に、「大丈夫だよ」とお母さんがそこに安定して存在してくれていたら、子どもは安心して自分のチャレンジと向き合えます。
子どもは自分自身を信頼して、試行錯誤やチャレンジができるんです。
お母さんが自分を信じて見守ってくれていたら、子どもも自分自身を信じることができるんです。
注意や指示、命令、アドバイスは、「あなたじゃ無理よ」といっているのと同義。
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熱いお鍋に触れたら火傷する。
包丁も気をつけないと怪我をする。
最低限の知識は重要。
けれど…
お鍋を使うたびに「ほら、ほら気をつけて!」
包丁持つたびに「手元よく見て!持ち方!」
なんて言われ続けたら、火傷も怪我もしないかもしれないけれど、料理が楽しくない。
「うるさい!!!やめたっ!」ってなっちゃう。
もしくは、常に、親からのOKがないと前に進めなくなる。
楽しみながら、小さな失敗かすり傷を負いながら、できるようになっていくんです。
私たちもそうやって、小さな傷を負いながら進んできたんじゃないかな。
子どもがそれを必ず乗り越えていくことを信じぬき、関心を向け続ける
人は誰しも、初めてのことは上手くできません。
教わっていないことは上手にできません。
生きるのだって、試行錯誤。
だって、人生初めてだから。
親も子どもも、この人生を初めて生きているんです。
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親は子どもより人生の先輩だけれども、親の人生と子どもの人生は異なります。
やっぱり、それぞれが初めてなのです。
先輩としてやるべきことはアドバイスではなく、何があってもこの子には乗り越えていく力があるんだと信じぬくことだと思います。
子どもが立ち止まっているように見える時、辛そうな時、嵐のように荒れている時。
私たちは、心の深いところで「ああ、この子は今、人生の学びをしているんだな」と慈愛の目で見守ることです。
そして、私たちも、自身に課せられた試練や困難から学び、乗り越える背中を子どもに見せることができます。
それも、どうせなら試練を歓迎し、揚々と乗り越えていく姿を見せることを選択できます。
だって、それらは人生を豊かにするヒントが詰まった宝物だから。
砂遊びやお料理が、リアルに体験してはじめて自分のものとなり、血肉となっていくように、彼らの人生がもっと豊かになるための学びがたくさん訪れているのです。
尊い時間を過ごしているのです。
そう信じぬき、見守るのです。
私たちが子どもを見守ることも、同じです。
「見守るが大切」と頭で分かっているつもりでも、見守るというのは大変なものです。
私たちも、知識ではなく身体で学び取る必要がある。
それくらい、子どものそれらを見守ることは時につらく、時に難しい。
子どもは最愛の存在だもの、そうなる。
私も、日々学びの中にいます。
そしてそれは、尊い時間です。
見守るとは
子どもが大きな試練や困難・失敗をしても、子どもがそれを必ず乗り越えていくことを信じぬき、関心を向け続けること。
子どもを見守れるようになって気づいたことがあります。
人には、無限の可能性があるということ。
手出し口出ししていた頃には、とうてい信じられなかったことを、子どもたちが教えてくれました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。