拒食症、不登校になった娘たちが教えてくれたこと
草にすわる
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
八木重吉
![](https://www.kosodate.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2023/12/rabbit-1882699_1280-1024x682.jpg)
ずいぶん以前に、運転中のTVでながれていた
「にほんごであそぼ」で、この詩を耳にしました。
八木重吉さんの「草にすわる」
ひどく、心をうたれたました。
大いなるものに圧倒された、感覚。
谷川俊太郎さんが、この『草にすわる』に触れた詩を書いてらっしゃいました。
間違い
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから
まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座って私はぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ
間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて
谷川俊太郎
![](https://www.kosodate.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2023/12/narcist-hill-718022_1280-1-1024x682.jpg)
機が熟すという言葉があります。
どんなに人を愛していても、その愛は相手には伝わらない。
また、どんなに深く愛されていても、そのことに気づけない。
私は、自分のことばかりだったのです。
こんなに娘たちのことを愛しているのに。
なんでわかってくれないのかと。
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
目の前にいる長女が死のうとした瞬間
目の前にいる次女が絶望の叫びをあげた瞬間
亡くなった父の生命を感じた瞬間
あの瞬間、私は「草にすわれた」のだと思う。
コンクリートから出、椅子から降りた世界にあったのは
圧倒的な愛とゆるしだった。
長女にかけた言葉も、
次女にかけた言葉も、
亡くなった父に伝えた言葉も、
すべては同じだった。
「わたしが まちがいだった」
(・・・みたいなこと)
そして、そんな瞬間、お互いの、「機」と「時」とが結びついたのだと思う。
まさに、機が熟した瞬間だったのだな。
「草にすわる」というこの短い詩が、私の心をひどくうったのは、私が体験した世界を端的に的確に表現していたからだ…と、このブログを書いていて改めて気づきました。